よたか2015.04.10 20:00:00
夜勤明け。雅美がドアを開けると、差し込む朝日が奥まで照らす。いつも蛍光灯で白々しい部屋が自然光で満たされる。雅美は狭い玄関に潜り込み、キッチンの床に荷物を下ろしてドアを閉じた。明るさが失われ雅美は取り残されてしまった気がした。十数センチの玄関の段差まで足を上げるのも億劫に感じた。
去年、夫が冤罪で射殺された。
デイケアの仕事を辞めて、夜勤のある特別養護老人ホームへ移った。仕事はかなりキツく同僚も次々と入れ替わり、雅美の負担も増えて行く。
だけどそんなのは耐えられた。体のつかれは休めばとれる。だけど心は休んでも、休むほどに仕事に行くのが辛くなる。
すっかり心がすり減った。気持ちも動かなくなった。そうしないとやっていけない。
常にベッドは満床。ソレまで居た誰かが亡くなった時だけ空きが出る。次の日には知らない誰かがソコに居た。名前も憶える間もなく沢山の人が居なくなった。だけど、笑顔でいる事が求めらていた。
深夜の勤務は特に辛い。
夕べもタクシーを呼ばれてしまった。『家に帰る』と言っていたが既に帰る場所は無くなっている。彼もココで最期を迎えるのだろうと想像すると、キツくも言えない。だけど優しくもできない。後から自分が辛くなる。
だけど、雅美の家には仕事よりも辛い現実があった。
奥の部屋の押し入れには小3の娘が引籠っている。学校にも行っていない。中学の息子は虐めにあっているようだった。
雅美は子どものためにキツイ職場に転職した。少しでも蓄えが必要だと思ったから仕事の時間を増やした。
でも、そんなのはウソ。雅美が一番よく分っている。
仕事場でどれだけ辛い事があっても所詮はひと事。でも夫の冤罪も、閉じこもっている娘も、孤立している息子も、なによりも目の前の現実。
今は少しでも一緒にいる方がいいに決まってる。だけどどうしてもできない。
2人は逃げられないのに、逃げるように転職した雅美は負い目を感じてた。
だから、こうしても顔を併せない時刻に帰って、2人の知らないうちに家を出ていた。
食堂で貰ってきた余り物を冷蔵に入れていると、最近は“菓子パン”が入っている事があった。余分な支出は抑えたいので、菓子パンを買う事はほとんどない。買って来るとすれば息子の勇祐だろう。
「でも、どうして?」
何気なくテーブルの上を見ると、広告の裏に書かれた置き手紙。
「冷蔵庫の中の菓子パン、全食べてもいいよ 勇祐」
「ありがと じゃ半分だけ。半分はおにいちゃん食べて 美弥」
2人のやり取りが書いてあった手紙をみて、雅美は2人を避けてきた自分への罰だと感じた。
2人はやり取りをして、お互いを思いやっている。
2人はこんな酷い現状から立ち直ろうとしてる。
わたし抜きで……。
テーブルの上の一枚の紙切れは、ソレまで気を張っていた雅美を挫くには十分すぎるモノだった。世間に後ろ指さされて、心を殺して仕事をして、家族にも見放された。
いや解っていた。
元気になる事も無く小学生よりも軽くなっていく入所者たち。「夕方には迎えにくるから」と言われて、その言葉を信じて夜中に叫ぶ新入所者。持て余せば子どもだって親を見捨てる。毎日見ている老人たちが自分とだぶった。
雅美がテーブルの上に両手を突いてじっと手紙を見つめる。脱力したせいか、涙がこぼれ落ちる。
「かあさんおかえり」そこへ勇祐が声を掛けて来た。
「あぁ、ただいま。いま起きたの?」いつもは勇祐が起きて来る前に寝ていたので、ココで顔を合わす事はほとんどなかった。雅美が思った以上に手紙のショックは大きかったらしい。
「かあさん。いまから朝食作るけど、一緒に食べない?」
「作ってくれるの? だったらいただくわ」
「とは言っても大したモノ作れないよ。目玉焼きくらい」そういって、勇祐は手際良く準備をした。
「かあさんと一緒にご飯食べるの久しぶりで嬉しいよ」
「美弥とは食べないの?」
「美弥は、まだ出て来ないんだ」
「でも手紙が……」
「あぁこれ。ただのお菓子のリクエストだよ」
「そうなの。でもお小遣い足りてる」
「まぁ毎日1個なら買えるかな?」
「それで、半分っこにして食べてるの?」
「いや、全部食べてもいいんだけど、美弥はなにか手紙に書きたいんじゃないかな」
「手紙に書く?」
「なんていうか、美弥は他に外と繋がる方法がないから、書きたいんだと思うんだ」
「そ、そうなの」
「かあさん、食器は水につけておいて。帰ったら洗うよ」
「ありがとう」
「かあさん。いつも仕事ごくろうさま」
そう言って、勇祐は学校へ行った。
勇祐と話しが出来てよかった。雅美は勇祐がすすめてくれた菓子パンの残りを食べて、テーブルの上の手紙に付け足した。
「菓子パンごちそうさま 雅美」