よたか2015.10.24 20:00:00
1985年夏。自転車レースが好きで仕事を辞めた飯塚敏弘(いいづかとしお)は、本場イタリアまでやって来て、ペルージアの下宿で暮らしていた。最初はミラノへ来てみけれど、アテがある訳でもなく、日本領事館で相談すると「ペールージアへ行くといい」とすすめられた。ただ、所持金が少なかったので、ペールージアまで自走する事にした。
地図を見ても道がよくわからず、いつの間にか高速道路を走っていたり、街中で迷って地図を広げているとイタリア人たちに取り囲まれて、ああでもない、こうでもないと言われながら時間が過ぎて暗くなり、あげく気のいいおやじに食事に誘われた事もあった。
敏弘も日本で勉強した〝カタコトのイタリア語〟で受け答えしていたが、ネイティブの早口にはかなわない。結局ちゃんと話せない敏弘はどこへ行っても〝バンビーナ〟と言われて、子ども扱いされてしまった。
敏弘は野宿する事もあったが、運が良ければ誰かの家に世話になる事もあった。レスキュー隊の詰め所に連れて行かれて泊めてもらった事もあった。「チューリッヒ空港からアルプスを越えて、ミラノに行き、ペルージアに向かっている」と言うと、レスキュー隊員たちは大笑いして、敏弘のヘルメットを回してカンパしてくれた。5,000円にも満たなかったが、金額以上に財布が暖かくなった気がした。
翌朝、歳費が起きた時には、すでに訓練に出かけていて隊員たちは居なかった。モップ掛けしている女性に「グラッツェ」と言い残し、レスキュー隊の詰め所を後にした。女性は外まで出て来て「アウグーリ」と叫びながら敏弘を見送った。
ペルージアまでは3日の予定だったが、結局10日も掛かってしまった。
時間的にはロスだったが、世話になった先で家事や農作業を手伝ったり、ありきたりの日常会話を繰り返す事で〝イタリアスキル〟を敏弘は身につける事ができた。
そしてペルージア到着。
領事館の人は「賑やかな街」だと言っていたが、駅前は閑散としてた。駅員に聞くと「街の中心はあそこだ」と言って、小高い山の頂上を指さした。
『ローマ帝国時代の都市国家(ポリス)中には、守りやすい山の上に城塞都市があった』と、イタリア語教室の先生が言っていたのを、敏弘は思い出していた。
アスファルトが剥がれて石畳が見える、曲がりくねった細い道を登りながら『この登り坂はトレーニングになる』と敏弘は考えていた。
山の頂上にはへばりつくように、賑やかな街が広がっていて、中心には教会と大きな広場があった。
近くにいた男性を捕まえて〝下宿(ペンショーネ)〟を紹介してくれる場所を聞くと「わからない」とカタコトのイタリア語で返された。敏弘が英語で質問すると、流暢な英語が返ってきた。
ペルージア大学では留学生にイタリア語を教えているので、今までの街よりも外国人が多いようだった。日本人の敏弘にはイタリア人もドイツ人もオランダ人もみんな同じに見えるけど、ヨーロッパの人達にははっきりと違うらしい。
敏弘は男性に「サンキュ」と言って、イタリアの年配男性を探した。そして気の良さそうなイタリア男性に声を掛けてると、期待通り大騒ぎしてくれて、広場の一画にはイタリア人だらけの輪が作られた。
「下宿の紹介所? 学生じゃないと無理だろ」「部屋空いてる家はねぇのか?」「下宿知ってる奴いるか?」「エリカのところどうだ? あいつはイロイロ空いてるだろ」「ハハハっ。そうだな」「エリカ=フィオーリか? そりゃいい」「じゃ、エリカのところへ連れて行こう」
そんな早口会議の結果、敏弘は数名の男たちに〝エリカ〟という女性の下宿に連れて行かれる事になった。
エリカの下宿には看板はなかったが、石造りの建物の1フロアに数名の学生が暮らしているらしかった。連れて来てくれた男たちは「エリカによろしく」とだけ言い残して帰って行った。
エリカは30代後半、ウェーブの掛かった茶色の細い髪の毛にグリンの瞳、目鼻立ちがハッキリして美しかった。筋肉質ではなかったが、この年代のイタリア女性にしては珍しく痩せていて、そのせいか少し寂しげに感じたが、影の部分さえも彼女の美しさを作っているようだと敏弘は感じた。
キッチンのテーブルで敏弘は、目の前に座っているエリカにパスポートを差出したが、エリカは興味なさそうに眺めていた。
「あなたの黒髪は真直ぐで艶があって綺麗。とても素敵よ。あぁそう。家賃決めないとね。食事付きで月に10万リラ(約15,000円)でどうかしら。今晩から泊まるんでしょ」
契約優先のヨーロッパで、こんなに超格安ですぐに決まるのが不思議だった。しかし他にアテもなかった敏弘はすぐにOKをした。
「夕食の準備をするから、あなたも手伝ってね」エリカはそう言って微笑んだ。
他にも住人がいるはずなのに、夕食はエリカと2人きりだった。
「みんなバカンスで旅行に行っちゃった。でもトシヒロはずっと居てくれるんでしょ」40歳近いエリカが少女の様な笑顔で笑った。少女のように無邪気に、少女のように儚げに、少女のように甘えて笑った。
敏弘はその笑顔に見蕩れて、ただ「スィー」と頷いた。敏弘の返事を確認するとエリカは明るく笑った。
「自転車のチーム探しているんでしょ。紹介してあげるわ。明日の昼に一緒に行きましょ」
そう言って、エリカはコレからの事を楽しげに話はじめた。
最初に感じたエリカの〝影〟は、もう見えなかった。
敏弘が連れて来られてのは牛乳販売店だった。販売店といっても麓の牧場(ぼくじょう)から毎朝牛乳を搾ってミルクタンクで街中のレストランや、瓶詰にして街の人たちに配達しているので、それなりに規模も大きく20名ほどの人達が働いていた。
自転車のチーム『ペルジーナラテ』は、従業員やその家族、顧客が主なメンバーでこの街で一番愛されているチームだった。
2人が着くと、オーナーは食事の準備をして待っていた。
「トシヒロは日本でも有望な選手よ」エリカはそう言って売り込んだが、敏弘は少し焦った。日本での実績はほとんど無いし、国際レースにも出ていない。
「イタリア語はわかるのかい?」
オーナーの質問に敏弘は「今の会話の内容はなんとか解る。だけどイタリア人ほど早くは喋れない」と言うとオーナーは「ベーネ」と言って、明日の昼の練習から来るように言った。
「よかったわねトシヒロ。明日練習頑張ってね」とエリカは敏弘に声をかけた。
ペルジーナラテを出て2人で街中を歩いていると、沢山の男たちが声を掛けてくる。
「ようエリカ。新しい男か?」「日本人、寝床は見つかったかい?」「エリカ。今日は肌に艶があるな」
エリカは「うるさいよ」と言いながら笑い飛ばしていた。敏弘はいつものイタリアの風景だと思っただけだったが、女性がエリカに声を掛けて来なかった事に気がつかなかった。
チームの練習は、先頭交代しながら平地を100キロほど走り、途中にある小高い峠をレースを意識して走った。
途中で何人も脱落して行ったが、敏弘はギリギリで最後まで走りきれた。オーナーも喜んでくれて『よしサポートしよう』と認めてくれたが、国際ライセンスが必要だからローマまで行って手続きしてくるように言われた。
「ローマまで行ってくる」と敏弘が言うと、エリカは少し不安そうな顔をした。「どうやって行くの?」「泊まりなの?」「すぐに帰ってくる?」そんな事を聞かれても敏弘にはよくわからない。距離的に自走できそうだったので「自転車で」と言うとエリカはあきれて「バカ」と口にしたが「仕方ないから送ってあげる」と続けて言った。
翌朝、エリカが借りて来た車でローマまで行く事になった。
ローマまでの道すがら、エリカはいろんな事を話してくれた。エリカはフランスから来た事、イタリア人と結婚した事、ご主人が亡くなった事。
エリカが未亡人だったのは何となく感じてはいたが、直に聞くと少し寂しく感じた。
「主人もペルジーナラテで自転車のレースに出てたの」エリカは少しだけ言葉を詰まらせながらそう言った。サングラスをしていたのでグリンの瞳は見えなかったけど、きっと涙ぐんでいたに違いない。
「最初はちょっと辛かったけど、いまはもう大丈夫よ。街の人達も優しいし」
敏弘は〝優しい〟という言い方に違和感を感じた。女1人生きていくのがどういう事なのか理解できないほど子どもじゃない。かといってそれを受け入れられるほど大人でもない。敏弘は最初に感じた影の部分が見えた気がした。
イタリア自転車協会の手続きは簡単だったが、日本での選手照会があるので、ライセンス発行まで3週間ほど待つように言われた。
帰りの車の中で、敏弘は日本でもっと調べておけば良かったと後悔をしていた。元気のない敏弘を見て、エリカは街道の脇に車を停めた。敏弘は理由がわからずにエリカの方を見ると寂しそうな笑顔を浮かべていた。
「トシヒロ。私は待っていても何もないの。だけど、あなたは待てば希望が叶うんでしょ。だからそんな顔をしないで」エリカはそう言いながら右手を敏弘の左頬にのばして、ゆっくりとさすった。
「やっぱり、日本人の肌って滑らかで気持ちいいわ。もう少し触っててもいかしら?」
敏弘はそうなる事を少しだけ期待していた。未亡人、男たちの態度、最初に感じた寂しげな印象。それに敏弘は何ヶ月も女性と寝ていなかった。敏弘は「プレーゴ。チェルタメンテ」そう言ってエリカを抱きしめた。
レースに出られない3週間の間も敏弘はペルジーナラテの練習に参加した。最初はギリギリだったスピードにもついていけるようになり、コースを覚えてからは登りでも大きくはなされる事は無くなった。
敏弘は練習前はペルジーナラテに行って、ミルクタンクを洗ったり、掃除したりして手伝いをしていた。最初はオーナーに「暇なら手伝え!」と言われて仕方なくやっていたが、慣れてくると楽しくなって来た。いままで敏弘は『日本人が物珍しくて寄ってくる人達』とばかり会ってきたので、イタリア人はみんなそうだと思っていたが、そうでもない事に気がついた。口べたな男や、おとなしい子ども、興味はあってもなかなか言葉にできない内気な女性もいた。栗毛色の長い髪を後ろで束ねているビーチェ(ベアトリーチェ=ブランビッラ:19歳)はそんな女性だった。
最初ビーチェは、敏弘から隠れるように仕事をしていたが、敏弘が気がつくといつも敏弘の方を見ていた。何度か目が合って話をすようになった。敏弘は日本人と大して違わない事に安心してビーチェと話をするようになった。
若いビーチェは日本の事、敏弘の事を聞いてきたし、自分の家族の事や好きな音楽の事を敏弘にもわかるようにゆっくりと話してくれた。
「トシの艶のある黒い直毛が好き。自転車に乗って風になびいてるのを見るとキュンとしちゃうの」そう言いながら、ビーチェは敏弘の頬にキスをしてくれる。
イタリア人の挨拶だとわかっていても、さすがに緊張する。特にビーチェの好意が伝わってくるから、どうしても冷静ではいられない。まるで高校生の時に戻ったようなドキドキした日々が続いていた。
ある日、下宿に帰るとエリカが真剣な顔をして待っていた。
「絶対ベアトリーチェに手を出しちゃダメよ」
唐突にそう言われて敏弘は驚いた。オーナーがエリカに言ったに違いない。だけど、エリカにそんな事を言われる筋合いはないと思った。そう言うとエリカは少し悲しげな顔をして言った。
「もし女が欲しかったら私で我慢しなさい。ベアトリーチェに手を出したら、あなたは日本に帰れなくなるわよ」
他にもエリカは何か言っていたが、意味が理解できなかった。嫉妬しているのかと聞くと。それもあると答えた後「でも、あなたはいつかココを出て行かないといけないのよ」と顔を伏せて息を詰まらせながら吐き出した。
エリカの言葉に噓はないと理解した。嫉妬だけではないのかもしれない。でもビーチェの事をそんなに厳しく言うのか理由がわからなかった。その日はエリカがそのまま抱きついて来たので、敏弘は寝室まで運んで肌を重ねた。
エリカは体のラインも維持しているしとても魅力的だ。だけど、肌の張りや香りに年齢を感じてしまう。
『ビーチェはもっと抱き心地がいいのかもしれない』敏弘はそんな思いを消せないままエリカへの愛撫を続けていた。
朝になっても、ベッドの中でエリカが心配そうな顔をしていたので、敏弘は練習には行かず一日中部屋でエリカと一緒に過ごした。
翌日、敏弘がペルジーナラテへ行くと、不機嫌そうな顔で掃除をしていたビーチェがすぐにやってきて、キツく睨みつけて言った。
「トシは私の事が嫌いなの? おばさんの方がいいの? ハッキリしてよ」
さすがイタリア女だと感心しつつ「ビーチェの事は好きだけど、今は自転車の方が大事だ」と答えた。敏弘は断ったつもりだったが、ビーチェは嬉しそうに笑っていた。
「うれしい。じゃ、一緒に夕食を食べましょう」
敏弘はビーチェの笑顔から勘違いさせてしまった事だけはわかった。だけど仕事中に騒ぐのは良くないと思ったし、どうせ一緒に夕食を摂るなら、その時にハッキリ言えばいいと思った。
その日は少し早めに練習を切り上げて、エリカと顔を会わせないように気をつけて部屋に戻り、手紙だけを残してビーチェとの待合せの場所に行った。
いつもジーンズのビーチェは、刺繍の入った白い綿のシャツに、薄い生地の黒いミニのスカート、デニムのジャケットを着ていた。いつもは後ろで束ねている栗毛色の髪をほどいて風になびかせていた。ここまでされるとさすがに『全部あなたの勘違い』とは言い出しにくい。ビーチェは敏弘を見つけると、大きく手を振って駆け寄ってくる。
「トシ。じゃウチに行きましょ」
ビーチェは『家族の夕食』に招待したつもりだったらしい。敏弘は外食してそのまま外泊するのはまずいと思っていたが、家族の前ならそんなにムキにならなくてもいいかもしれない。
ビーチェの家はまるで宴会場のようだった。どうやらみんな血縁らしいが父方だの母方だの入り乱れていた。ビーチェに紹介されて14人までは数えたが、子どもがじっとしていないので数えきれなくなった。
どうやらビーチェの父親が「よく来たな新しい息子よ」みたいな挨拶をしてきた。酔っているんだと思って聞き流していたが、ワインを飲んでいない母親まで、敏弘の事を『息子』と言い出した。ビーチェにどういう事か確認すると「結婚したい男性がいると言っただけよ」とサラッと言った。
さすがにまずい事は解った。いくらなんでも結婚なんて考えられなかった。夕食も終わりがけには、気を使われてビーチェと2人きりにされていた。
天井が高く白い壁のビーチェの部屋。彼女の香りが充満していて敏弘は理性が保てそうになかった。それでも目の前にいるビーチェにちゃんと説明をしなければいけない。
「ティアーモ」ビーチェがそう言って体を預けて来た。若い体を抱えてそのまま椅子に座る。ビーチェは「ベットでいいの。今日はそのつもりだから」と敏弘の耳元で囁いた。
敏弘の腕の中でビーチェは体を硬くして小刻みに震えていた。それでも思い切ったように、ビーチェは顔を上げていつもは頬にしていたキスを初めて唇に重ねてきた。それほど経験がないらしく唇には力が入っていて硬く閉じていた。それでも敏弘が必死に堪えていると、ビーチェが泣き出した。
「どうして抱いてくれないの? 私って魅力ないの? 本当は嫌いなの?」
ビーチェの涙におされて、敏弘はそのまま抱いてしまった。ビーチェにとって敏弘は初めての男性だった。
翌朝、敏弘が下宿へ帰ると、エリカはキッチンで眠らないで待っていた。少し気まずくて挨拶も早々に部屋へ入ろうとすると、敏弘はエリカに呼び止められた。
「若い女の匂いがするわ。ベアトリーチェと寝たでしょ」
エリカのストレートな言い方が気に触った敏弘は「あぁ。寝たよ。いいだろ。別に」と言い返した。
エリカは思いっきり敏弘の頬を掌ではたいた。敏弘は少しひりつく頬に手を当てて、顔を戻すと涙ぐんだエリカが敏弘は何も解っていないと言った。
「ベアトリーチェと結婚する気があるならこれ以上何も言わない。でもその気がないならすぐにペルージアを離れなさい」
エリカは気持ちを抑えて、怒るでもなく諭すようにそう言った。エリカはペルジーナラテのオーナーを呼んで、敏弘とビーチェの事を話した。
「敏弘。洗礼を受けてビーチェと結婚するしかないだろ」とオーナーは言った。
「彼は日本人よ。日本人にイタリアのルールは解らないわよ。敏弘。イタリアでは、処女かどうかとても大きな問題なのよ」
エリカが言っている〝ルール〟とはカトリックの教えの事だと敏弘はやっと気がついた。ビーチェの家族にしても、娘が結婚して他に行くくらいなら、日本人を捕まえてた方がいいと思ったのかもしれない。
敏弘は一回だけ頷いて、そのまま下を見ていた。
「わかった? わかったなら、すぐにココを出なさい。ライセンスが手入ってレースに出られたらなんとかなるはずだから」
「しかし、それじゃ、ビーチェが可哀想だ。なんとかならないのか?」
「ベアトリーチェには私が話をする。それでいいでしょ。じゃ夕方行くから」
エリカはそう言ってオーナーを送り出した。2人になると気まずさが加速する。
「もう出て行く準備しなさい。でないとベアトリーチェの父親に殺されるわよ」
ぎょっとしてエリカの顔を見ると、エリカは一回だけ軽く笑って、冗談だと言ってくれた。それでもタダでは済まないのは敏弘にもわかった。
「どうして、私だけにしておけばよかったのに、どうして我慢できなかったの」
口ごもって上手く返事できないでいると、男ってどうしようもないわね。と言いながら、エリカは敏弘を抱きしめた。
「最後にお願い。シャワーを浴びてから、もう一度抱いてくれない?」
「シャワーを?」
「他の女の匂いがする男なんてイヤよ」
そして2人は一緒にバスルームへ向かった。
昼すぎに敏弘は下宿を出て、ペルージアを旅立ちローマへ向かった。エリカは敏弘を見送ると、身支度をしてペルジーナラテへ向かった。
エリカがペルジーナラテに着くと、ビーチェが勝ち誇ったような表情で笑っていた。エリカはビーチェの視線に哀れさに感じながら、母親に連絡するように言って休憩室に2人きりにしてもらった。
エリカはビーチェに〝敏弘が旅立った〟事を話した。ビーチェは初めての男が自分から離れていった事に対して怒りを隠さなかった。そしてその怒りは全て目の前のエリカに向けられた。
「ババァ! 売女! あたしのトシを返してよ」
どんなに口汚く罵られてもエリカはただ黙っていた。むしろビーチェは意外と落ち着いているように見えたので、敏弘がいなくなる事は予想していたのかも知れないとエリカは思った。
そのうちビーチェの父親と母親がやって来て、エリカを攻めはじめた。父親と母親の言葉はビーチェの比ではなく心に突き刺さった。覚悟していたとはいえ、エリカの心が折れはじめて、涙が流れてきた。
「あの日本人どこへ行った。ぶっ殺してやる」父親がすごんだ。
「トシヒロはミラノの日本料理店へ行きました。もうペルージアへ帰って来る事はないと思います」
「うるさい。この淫売。うちのビーチェをお前みたいな売春婦にするつもりか」
ソコまで言われても、ただ黙って耐えて俯いているエリカ。
「あんたみたいな売女、この街から出て行け。追い出してやるわよ」母親がそう言った時、4人がいる休憩室のドアが開いた。
「すいませんでした。全て私の責任です。気の済むようにしてください」
日本語で叫ぶ声がした。
「トシヒロ。何で戻ってきちゃったの」エリカが叫ぶ。
「貴様! いい度胸だ!」そう言いながら、父親が敏弘の頬を思いっきり殴りつける。石造りの硬い壁に叩き付けられる敏弘。そのまま何度も殴られて顔中腫らし、やがて立てなくなる敏弘。
「ヤメテ。トシヒロを傷つけないで。私を殴ってください」
エリカが敏弘をかばうと、ビーチェは泣きそうな顔をして歯を食いしばった。
「この野郎ぶっ殺してやる」そう言いながら、父親は持って来た散弾銃を組み立てる。母親は悲鳴にならない声をあげる。エリカは父親の足元にすがりついて慈悲を乞う。父親が組み立て終わった銃を構えた時、ビーチェは父親と敏弘の間に入って両手を広げて言った。
「お父さん。もういいわよ。こんな男ほっときましょ」
「ビーチェ。お前はそれでいいのか?」
「いいも悪いも、お父さんはまだ私に傷を付けるつもり?」
「傷?」
「人殺しの娘じゃ、もうどこにもいけないわ」
そう言われて父親はやっと落ち着いたらしく、銃を下ろした。
「おい、エリカ。その男をどこにでも連れて行け。もう顔も見たくない」
「ありがとうございます」
「チェッ」エリカの言葉にビーチェが舌打ちをした。
「エリカさんを……」
「エリカがなんだツバメ」
「エリカさんをペルージアにおいてあげてください」
「そんな事オレの知った事か。お前とはもう話したくない。さっさと出て行け」
そう言われて、エリカは敏弘に肩を貸してペルジーナラテを出た。
「なんで戻って来たのよ。あんたバカよ」
「そんな泣きそうな顔して言われても説得力ないよ」
「そうね。アレくらいの悪口慣れてるつもりだったけど、あなたが来てから泣き虫になったのかしら」
「エリカ。じゃぁ……」
「ダメよ。あなたはもう出て行きなさい。歳が倍も違うおばさんと一緒にいる為に日本から来たんじゃないでしょ。ちゃんとやりたい事やりなさい」
「うん。でも倍も違わないけどね」
「ふっ。あなたが出てから自転車協会から電話が来たの。ライセンスが出来たって。だからローマに行って、後はレースに出て好きなだけ走りなさい」
「うん。ありがとうエリカ」
そう言って、敏弘は、黒い艶のある髪を揺らしてペルージアを後した。
<了>