よたか2017.09.25 04:40:38
幸穂(ゆきほ:35歳)は嫌がっていた息子の信広(のぶひろ:14歳)を無理に連れ出して、車で出かけたのは間違いだったと後悔していた。幸穂の夫である克雄(かつお:38歳)は温厚でとてもおとなしいのに、信広は言葉使いが乱暴でどちらかというと粗暴だった。克雄は『思春期だからなぁ、反抗期の延長みたいなものだろう』と言ってさほど気にする様子もなかったが、幸穂の心にはその言葉がトゲのように心に刺さった。
別に幸穂は信広のことを嫌っていたわけではなかった。出かける時も『中三の息子が嫌がってて可愛いなぁ』と感じていた。だけど、今回だけは家に置いて来た方が良かったかもしれない。
夫の克雄が運転する車は高速道路で事故に遭ってしまった。
助手席に座っていた幸穂が最後に見たのは、フロントガラス越しのコンクリートの壁だった。そこで幸穂の意識は途切れた。
病院のベッドで昏睡していた幸穂は夢を見ていた。
夢の中を彷徨いながら、自問自答を繰り返していた。
映像化された事故の様子を何度となく見せられた。
救急車に載せられてから、病院に到着するまで聞える医者や看護師たちの会話は、その都度夢の中で映像化されていた。
「息子の方は肝臓破裂で出血が多すぎる」
「止血は出来ても再生できないかもしれない。移植かな」
「手続きからも、相性からいっても親からの移植が現実的か」
「たぶん脳死状態だし、遺族さえ承認すれば大丈夫だと思うぞ」
克雄が脳死? 幸穂にはそう聞えた。
だけど悲しいとは思えなかった。
感情が気化して、無くなったような気がした。
動かない体を病院のベッドに横たえて、青白い病室の光を肌で感じながら、ずっと医者や看護師たちの話を聞いていた。
他人とコミュニケーションは取れないけど、これほど落ち着いて考えることができたのは生まれて初めてかもしれない。
幸穂が考えていたは信広の事だった。医者の話では『いくつかの臓器』を移植しなければならないらしい。そして内臓を提供するドナーは脳死した克雄らしかった。
医者は親だから適合しやすいと言っていた。本当に克雄が信広の親ならば適合する確立も高いのかもしれない。
本当に、克雄が信広の父親だったらそうなのかもしれない。
15年前に幸穂はちょっとした悪戯のつもりで、妹の彼氏を誘った。女性経験が無い乱暴な愛撫、単調なリズム、高校生の我儘な行為はそれほど良くはなかった。
だけど、いつもはされるがママ、言われるがママの受け身だった幸穂は、彼をリードしたり、命令したりするのが楽しくて仕方なかった。
それからは彼の性欲に任せた。足先から耳の裏まで舐めさせたり、動けないように縛って焦らすのも楽しかった。
そして、彼が妹と別れてからは幸穂と彼の関係も終わった。
しばらくして信広が生まれた。
その頃の幸穂は毎晩のように克雄をベッドに誘っていた。本当にそうしたかったのか、密会の贖罪からなのか幸穂にもわからなかった。
ただ、克雄とは毎晩のように関係があったので、幸穂は克雄の子どもだと信じて暮らして来た。
『もし、信広が克雄の子どもじゃなかったら、克雄と信広が他人だったら、適合する確立はどのくらいなんだろう?』
幸穂は少しだけ心配したけど、動けないからどうにもならない。病院がちゃんと調べてくれると思って心配するのも辞めた。それよりも、もし親子じゃないことがわかったらちょっとやだなと思っていた。
幸穂は違和感を感じていた。
事故が起きて、克雄が脳死、信広が危篤、幸穂の体も動かない。もしかしたら家族が全否定されるかもしれない。そんな大変な時なのに幸穂はとても落ち着いていた。むしろ解放感さえ感じていた。夢の中だから正常な判断できてないだけなのかもしれない。だったら一刻も早く目を醒して医者に告げなければいけないことがある。
だけど幸穂はこの心地よさを手放したくなかった。
幸穂は夢の中で天井の高い白い部屋の中にいた。真ん中に置かれたアンティークな木製の椅子に静かに座っていた。窓もないのに明るいのは白い壁が柔らかに光っているのだと思った。
夢のなかでも幸穂は体が動かなかった。拘束されているのではなく、ただ動く理由がなかった。ゆったりと流れる時間に浸っているとまた会話が聞えて来た。
「検査結果でました。適合しました」
「家族の方の確認が取れました。移植できます」
「わかった。手配をしてくれ。準備が整う前に面会だけはさせておこう」
「ストレッチャーを入れて下さい」
信広の移植手術ができる事になったらしい。幸穂は少しだけ安心した。だけど気持ちはずっとフラットなままだった。幸穂には感情の起伏も何もなかった。
「幸穂。ごめん。事故なんて起してごめん」
ふいに克雄の声が聞えた。最初は死んだ克雄が自分に呼びかけていると思っていた。だけど、幸穂はすぐに全てを理解して受け入れた。
「そっか。そうだったのか。克雄くん。信広を頼むね。立派に育ててね」
幸穂の声は誰にも届かなかった。それでも幸穂は満足だった。信広は助かるし、昔の事も秘密にできる。だからこれで良かったと幸穂は思った。
「では時間がありませんので、奥さんと息子さんの移植手術をはじめます」
「は、はい。お願いいたします」
体を起せない克雄の涙声が、幸穂を載せたストレッチャーを見送った。
〈了〉