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君といつまでも【1】溺れた女房と、溺れる義妹

よたか2014.11.18 15:04:43

 10月のある夜、34歳の麗子《れいこ》が、浴槽で息を引き取った。

 夜が明けて、伸一《しんいち》がいつもより早く目を覚ます。いつものように3歳になる1人息子の巧《たくみ》が隣で寝てた。しかし、いつもと違ってその向こうに妻の姿がない。伸一は『麗子はもう起きたのか』と思っていたが、乱れていない布団を見て、少しだけイヤな予感がした。
 伸一は、2階建ての建売住宅の中を探しまわった。

 だけど、家の中に麗子の気配がしない。

 そして伸一は、バスルームの浴槽に沈んでいた麗子を、見つけてしまった。残り湯の中の麗子は、思いのほか安らかな表情だったので、伸一は、麗子が“ふざけている”と思った。思いたかった。
 麗子を、浴槽から引き上げた。
 麗子の体は、暖かかった。
 しかし、呼びかけても返事は無かった。
 肌寒い秋の空気は、麗子の温もりを奪っていき、伸一の腕の中で麗子は徐々に冷たくなっていく。
 亡くなってから、6時間以上経った麗子の体が、もう一度動き出す事はなかった。
 呼吸が出来なかったから、苦しかったのかもしれない。
 眠ったまま亡くなったから、苦痛は無かったのかも知れない。
 そんな事は、誰にも解るわけがなかった。知らないはずだった。
 ただ、溺死なのに、肺の中に水が入ってなかったのが、不自然だったらしい。

      ※

「別に苦しくなかったわよ。気がついたらあなたが目の前にいたし」
「そ、そうなの。でも今は、お客さんとか沢山来てくれてるから、少し黙ってて貰えるかな?」
「そうねよ。TPOは、わきまえないとね。あら、高校の同級生の綾子。来てくれたんだ。懐かしい。あっちには隣の糸田さんの奥さん見えてるわね。あまり話しとかしなかったけど、さすがに今日くらいは来てくれるのね」
「えっと、麗子さん。今日はどういう日なのか、解ってるよね」
「それくらい解ってるわよ。お葬式でしょ」
「そうだよ。君のお葬式なんだけど、勘違いしてないよね。生前葬とかじゃないんだからね」
「失礼ね。バカにしないでよ。それくらい解ってるわよ。あの祭壇の棺桶に、私の体があったの見たもの」
「死んじゃって“悲しい”とか、“未練”とかがあるから、ココにいるのかな?」
「そんなの解らない。気がついたら、あなたが私の手を握って泣いてたから、後ろから見てたの。変だなって思ったから、声かけたんじゃない。あんなに驚いちゃって、私の方が驚いちゃったわよ」
「いや、それ変だよ。驚くって」
「それもそうね。あっ、お焼香が始まるわよ。静かにしないと」
「あっ、そうか。そうだね」
「あなたって、こういう事ってだめね。やっぱり私が居ないと」
「……。とりあえず今は静かにしててね」
「わかったわ。まかして」

 司会者の進行で、お焼香が始まる。まず亡くなった麗子の夫で喪主の伸一と、長男の巧が焼香台の前に立つ。焼香台は3人は並べる幅があるのに、伸一は巧の肩を軽く押して促し、真ん中よりやや右側に立つ。
 参列者から見ると右に寄りすぎて、バランスが悪くて、不自然にも見えたが、厳《しめや》かなお葬式の最中に、誰もそんな事は口にしない。 
 焼香台の前に立った巧は、手を合わせて正面ではなく、なにもないはずの空中を見上げて笑いながら「おかあさん」と口にした。その一言は読経にのって、会場に広がり参列者の涙を誘った。
 伸一は、ちょっとドキッとして、手を合わせたまま左を向いた。

「おかあさんも“おしょうこう”しないの?」
「自分でやるのも変だしね。それよりターくん。ちゃんと前を向いて。ほら、前におかあさんの写真があるでしょ」
「うん。写真のおかあさんに“手って”あわせるんだね」
「そうよ。いい子ね」
「麗子さん。お願いだから、少しだけ静かにしてて」
「そうね。わかったわ。じゃ、ターくんまた後でね」
「うん」

 伸一親子の焼香は、少し長かった。若くして、亡くなった妻に語りかける父子《おやこ》を見た参列者の1人が、「まだ奥さん若いのに無念だったでしょう」と囁いたのが伸一の耳まで届いてきた。
 伸一は、気まずさを半分かかえて焼香を済ませ、横に5つ並んでいた親族席の最前列に座った。手前から伸一と巧が座り、残りの3つの席は空席。2列目より後ろには、亡くなった麗子の両親、麗子の妹、伸一の両親が座っていた。
 親族のお焼香が終わり、参列者がお焼香を始める。
 お焼香を済ませた参列者が頭を下げ、親族がお辞儀をする。そんなやり取りが延々と繰り返される。ただ、前の列に座っていた巧だけは、誰もいない席に向かって微笑みかけたり、何かを語りかけていた。

「ねえ、おかあさん。みんな泣いてるね」
「そうねぇ。お母さんが死んじゃったから、みんな泣いてくれてるのよ」
「“死んじゃった”って、どういう事?」
「もう会えなくなるって事なんだけど、会ってるか……。えっとね、お母さんがターくんに触《さわ》れなくなっちゃったって事かな?」
「もう触《さわ》れないの?」
「そうねぇ。触《さわ》れないし、ご飯も作ってあげられないの。ごめんね」
「やだ」
「でも仕方ないの。本当にごめんなさい。ターくん」
「そうだよなぁ。見えてるし、話しも出来てるから現実味がないけど、もう“会えない”んだよな」
「ごめんね。あなた。ちょっと間抜けな死に方しちゃって……」
「いや、ずっと麗子に……。ゴメン……」
「いやねぇ、泣かないでよ。まだ一緒にいるんだから」
「そ、そうだね」
 そう言って、伸一は大きく息を吐き出した。

 昨夜の通夜では、ほとんどの参列者がスーツに喪章だけ付けていたが、お葬式の参列者たちは、黒い喪服を着てる。足の届かない椅子にちょこんと座っている巧でさえ、黒のブレザーを着てる。
 それなのに、麗子本人は、ミモレ丈の茶のスカートに、白いチルデンセーターをざっくりとラフに着こなしていた。伸一には、それがとても気になっていた。

「ところで、どうしてそんなラフな服なの?」
「なに? 白い着物の方がよかった? 頭に白い三角布つけた死装束の方が良かったの?」
「いや、それはちょっとリアルすぎて、少し怖いんだけど」
「幽霊なのに“リアル”って変じゃない? あなた大丈夫?」
「そうれもそうなんだけど、なんというか、麗子さんが亡くなった実感が湧かなくてちょっと、悲しい気分になれないんだ」 
「だって、あなたって涙モロいし、これでも気を使ってるんだから。それに、わざわざ悲しまなくてもいいのよ。キリッとしてたら“しっかりした人”って思われて、すぐに再婚できるかもよ」
「再婚って、妻の葬式の日に、不謹慎だろ」
「いいじゃない。本人がイイって言ってんだから」
「この状況じゃ、そんな事、考えられないよ」
「へへへっ。わかってて言ったんだけどね。ゴメンね」
「……。頼むよ。今は嘘でも神妙な顔をしときたいんだから」
「何? 嘘なの? 私が死んでも悲しくないの?」
「悲しいよ。悲しいに決まってるよ。でも“本人”がそんなにペラペラ喋ってちゃ、実感わかないんだよ」
「そんなに怒って涙目にならないでよ。あっ、お葬式だから、涙目でもいいのか」
「だから……」
「わかってるって。お葬式が終るまで、黙ってるわよ」
「……。頼むよ」

 参列者が会釈をして通り過ぎるたびに、なんとか挨拶だけはしていた伸一だった。
 そして“いない麗子”と言葉を交わす仕草を見てしまった者は『奥さんが亡くなったショックが大きすぎたんだ』と思い、一部からは『これから大丈夫だろうか?』と少なからず心配されてしまった。
 伸一の後ろに座っている両親達でさえ、母を失くした幼い男の子と、若くして妻を失くした男を哀れに感じていた。

 そんな中で、亡くなった麗子の6歳下の妹、結子《ゆいこ》は、目の前でお辞儀を繰り返す、義兄《あに》の後ろ姿を見ながら、少し違和感を感じた。

 結子にとって、姉の麗子は理想の女性だった。
 あまり裕福でない実家の事を考えてか、高校を卒業して事務員として就職した。しばらくすると親会社から声を掛けられて転職し、営業職として結果を残してきた。そこで知り合った伸一と結婚して、子どもができ、退職までに10人以上の部下を育て上げ、円満退職した。
 その時も、多くの上司たちからは『子育てが終わったら帰って来てくれ』と懇願されていたらしい。伸一が両親に話していたのを、結子は聞いた事があった。

 子どもの時からそうだった。
 いつもニコニコしてて、みんなの中心にいて、子ども同士で喧嘩が始まっても、麗子が居るとだいたい収まった。
 優しくて、なんでも出来て、だれからも好かれる自慢の姉。結子はそんな姉を、ずっと羨ましく思ってきた。
 だけど親が姉を自慢するたび、周りが麗子を誉めるたび、『お姉さんとは大違い』とか『あなたってダメね』と、言われているような気がしていた。
 もちろん、誰もそんな事を言わなかった。でも、結子は自分の心の中で、姉に対して抑えきれない感情が、少しずつ育っていくのを感じてた。

 そして、姉が亡くなった。

 夕べのお通夜から今日のお葬式まで、ずっと動揺している両親を見た結子は『私と違って悲しすぎるから、イロイロ考える余裕もないんだろう』と自嘲気味に思った。
 あんなに優しかった姉が亡くなったのに、あまり悲しくない。寂しいとは思うけど、ちょっとだけホッとしてる。結子は、自分がイヤで仕方なかった。
 
 そんな事を考えていたお葬式の最中、結子は義兄《あに》の“奇行”に気がついてしまった。最初は巧に話しかけているのかと思ったけど、観察してるとどうやら違う。声は押し殺してはいるが“亡くなった麗子”と会話をしている様に見えた。
 本当に、お別れだと感じている人には気がつかないかも知れない。だけど結子には、お葬式そのものより、なにかしら大事な事のように思えた。
『きっと義兄さんは、ショックが大きすぎたんだ。それを支える事が出来るのは義妹《いもうと》の、わたしだけだ』
 結子は、勝手にそう思い込んでしまった。

「ねえ、あなた。返事しなくていいから、ちょっと聞いて」
「……?」
「後ろにいる結子が、気がついたみたいなの」
「結子ちゃんが?」
「返事しなくてもいいって言ったじゃない。もう喋らなくてもいいから、結子になに聞かれても、ちゃんととぼけるのよ」
 麗子は、伸一が軽く頷くのを確認してから席を立った。祭壇の前まで進み、お坊さんに頭を下げたり、参列してくれた友人の顔を見て、神妙な顔をしていた。『これで麗子さんも、少しは自分の立場が理解できたかもしれない』と伸一は思った。
 しかし、伸一がそう思っても巧には関係なかった。巧は席を立って、麗子の後を追いかけて行く。そして、お坊さんの方を向いたまま叫んだ。
「おかあさん。どうしたの?」
 巧の一言で、会場の時間が止まった。
 お坊さんが動揺して、お経が止まった。
 下を向いていた参列者は、急に顔を上げる。
 会場には静かなBGMだけが響き、お焼香を終えた何人かは、出口へ向かいはじめた。
 その時、伸一の後ろにいる結子が、巧に声を掛けた。
「巧くん、お母さんが困るから、そっとしといてあげようね」
『結子ちゃんにも、麗子が見えてるのかもしれない』と伸一は思った。
「あ、あぁっ、そうだぞ巧。ちゃんとお母さんに“さよなら”しないといけないからな」とは言ったものの、麗子に一番未練があるのは、伸一自身なんだろう。だから、麗子の幻が見えてしまうに違いない。
 その麗子の幻は、巧の側まで歩いて、席に戻るように言ってくれた。おかげで巧は席に戻り、その場はなんとか収まった。
 お坊さんも落ち着きを取り戻し、お経は再開されて、麗子のお葬式は無事に終了した。

      ※

「火葬の時は、ちょっとキタわ。さすがにキツかった」聞き慣れた声が、伸一の耳に届く。
 お葬式から、火葬、略式の初七日、四十九日までを1日で済ませて家に帰ると、小さな骨壺だけが目の前に残った。
 疲れていた巧は、もう2階の部屋で寝てる。

「そうよねぇ、もう体に未練が無いと思っていても、自分の体が焼けるのを見るのは、ちょっとキツかったわ」
 ルーズなベージュのコットンパンツに、ざっくりした白いプルオーバーを着た麗子が返事をしてくれた。いったい、麗子はいつ着替えてるんだろう。
「麗子さん、火葬炉の中で見てたの?」
「そうよ。せっかくだから見ておこうと思ってね。でもね髪と白装束が一瞬で焼けて、肌が見えてくると、なんだか自分が焼豚になったみたいで、イヤだったわ〜」
「えっと、麗子さん。きもち悪いとか、グロテスクとか、悲しいとかじゃ無くて“焼豚”みたいだったからイヤだったの?」
「そうよ。生きてる間に健康とか気にしても、死ぬときはこんなんかぁ。って感じ」
「そうなの? いつの間にか居なくなったから、てっきり火葬されて成仏しちゃたんだと思ってた」
「成仏かぁ。するのかな?」
「するだろ」
「別にいいんだけどね。三途の川も、お花畑も、神の審判も、天使も居ないから、成仏って言われてもねぇ、ピンと来ないのよね」
「誰か迎えに来たりしないの?」
「だぁれも来ないみたい。もしかしたら、私から見えてないだけかもね。生きてる人は見えるんだけどね。ちなみに、私が見てるのは、あなたとターくんだけだよ」
「そうなの? もしかしたら、結子ちゃんにも見えてるかと思ったけど、違うの?」
「うん違う。結子には見えてないわよ」
「お葬式の時に、なんか合わせてくれるような事を言ってたから、見えてるのかもしれないと思ってた」
「結子は、別の事を考えてるんじゃないかなぁ」
「別の事って、結子ちゃんは何を考えてるの?」
「さぁね。ところでさぁ、お葬式の時に言った事、覚えてる?」
「いろいろ言われてて、ちゃんと覚えてないけど、何の話しでしょう?」
「再婚の話しよ」
「再婚って、まだ女房が亡くなって3日も経ってないんだよ」
「別にいいわよ。四十九日の法要も済んでるじゃないの」
「いやいや、今日のは略式だから、1日で済ませたんだよ。法要は別にやるから」
「そんなのやらなくてもいいわよ。だって棒読みのお経上げられても、私1人成仏させられないじゃない。お金がもったいないわよ」
「でも、お義父さんたちの事もあるから、そんな訳にはいかんよ」
「そうねぇ。結局お葬式って、生きて残された人のためにやってるのよねぇ」
「そんな、身も蓋もない事を言わなくても……」
「それより、私さ、親より先に死んじゃったじゃない。だから三途の河原で石を積む覚悟してたけど、そんなのしなくても良かったみたい」
「なに? ひとつ積んではぁ。ってやつ?」
「そうそう。適当に積んだところで、鬼が壊しに来るの」
「やりたかったの?」
「そうねぇ。鬼が来る前に石垣作って、迎撃態勢を取るの。そして他の子の積み石を守りたかった」
「どんな正義の味方だよ」
「それくらいしか、生き甲斐がないじゃない」
「いや、もう……。ところで、石を積む話しはともかく、話しを戻すけど、再婚とかそんな事を言ってる場合じゃないでしょ。そう思わない?」
「別にいいんだけどね。気にしなくても。そうそう。もし好きな女の人出来たら、寝ちゃっても構わないからね」
「お、おぉい。嫁がそんな事、言うのか?」
「なによ。操を立てなくてもいいわよ。もう元嫁だから、浮気にならないわよ」
「そんな訳にいかんよ。お前が目の前にいるのに」
「なによ失礼ね。“その最中”は消えてあげるわよ。覗いたりいたしません!」
「いや、そんなんじゃなくてだな、精神的にだな、無理だって」
「嘘ばっかり。男なんて心より体が優先じゃない。どうせ、その時になったら勃つんでしょ」
「……。い、いや否定はしないけれども」
「それにね、私がこんなんじゃ何もしてあげられないじゃない。それとも私が裸になって、やってるフリだけで自分でする?」
「そ、そうは言ってもですね、麗子さん……」
「まぁわからないのも無理ないけど、死んじゃうとね、体への執着とか、欲望とか、どうでもよくなるの。そりゃセックスは気持ちよかったとか、あの時はイマイチだったとか覚えてるけど、そんなのはどうでもいい事なの。もっと違う事のために残っているような気がするんだ」
「という事は、俺が他の女と寝てても気にならないの?」
「そうね。気にならないわ」
「じゃ、風俗とか行っても?」
「それは辞めたがいいわね」
「やっぱり風俗は、許せない?」
「じゃなくてね、そういうセックスすると、濁ちゃうのよね」
「濁るって何が?」
「なんて言ううんだろ。あなたとか、ターくんとかって光って見えるのよね。金色って感じ。だけど、元気のない人とか失敗しそうな人とか、ちょっと濁った感じに見えちゃうのよ」
「それって、“オーラ”ってやつ? オーラが見えるの?」
「オーラかなぁ。後光が射してる感じじゃなくて、その人そのものの色なんだよね。だから、あなたが思っているような見え方じゃないわよ」
「そうなんだ。でも死んじゃうと、そんなのがわかる様になるんだね。他にキマリとかあるの? 死神が来るとか、他の幽霊が見えるとか」
「さっきも言ったじゃない。他は何も見えないし、わからないのよ。それに私に霊感なんてないし」
「そ、そうだよね。霊感とかなかったよね。霊感とかあったら夜の会社で1人で残業とか出来ないよね」
「そうよ。そういえば残業中に、あなたが声かけてくれたのよね『ひとりで大丈夫?』って。最初は『聞くくらいなら手伝え』って思ったけど、あなたも残業中だったのよね」
「まぁ俺は、失敗して残業してたんだけどね……。ちょっと。その事、忘れていい?」
「ごめんなさい。前の彼女の事は、言わない約束だったわね。もう言わないわ」
「だからさぁ……」
「ごめんなさい」

 その夜、伸一は、遅くまで1階のリビングのソファーに体を預けて、延々と“話し”をした。今日1日、目の前でいろんな事が過ぎて行った。喪主とはいっても、お葬式は、ほとんど人任せになってしまった。
 連れ添ってきた妻が亡くなる悲しみもあった。でも思わず目の前に現れた……、現れてくれた、麗子の相手で精一杯だったので、ずっと動揺してるだけだった。
 伸一自身は『ショックが強すぎて、幻を見ているのかもしれない』と冷静に考えていた。しかし、そう思ってしまうには、目の前の麗子はあまりにも“リアル”すぎた。

 結婚前や、新婚の時は、こんな風に会話を楽しんでいた。

 のんびりとした口調で安心させながら、大事なキーワードをアンカーのように打ち込みながら、話しを続けていく。気がつくといつも麗子のペースで話しが進んでいるのに、イヤな感じをひとつも残さない。
 麗子はそんな才能の持ち主だった。
 結婚して、巧が生まれて、そんな会話を楽しむ時間がだんだん減って来た。麗子は家事に、育児に忙しく、食品関連の会社に勤めている伸一も仕事に忙殺され、家に帰っても、麗子とゆっくり話しをする機会が、めっきり減ってしまった。
 伸一は今更ながら、そうなってしまった事を後悔していた。だからこの時間。たとえ幻覚でもいい。妄想でもいい。幽霊でも、悪魔でも、なんだっていい。最期かもしれない。麗子と話せる時間を大事に過ごしたかった。
 少しでも長く話していたかった。
 朝になって現実に戻った時、目の前で他愛のない話しで笑ってくれている麗子が、居なくなるのが恐くて仕方なかった。
 伸一は、眠りを拒否して『千夜一夜物語』の“シェヘラザード”のようにいつまでも話しを続けた。
 それでも非日常な一日と、妻を亡くしたショックは、疲れとなって伸一を襲った。

「あなた。もう寝たら? 疲れてるでしょ」
「いや、まだいいよ。まだ忌引きで会社を休めるから、起きてても大丈夫だよ」
「なに言ってるの? あなたが寝坊したら巧の世話は誰がするの? あなたしかいないでしょ。しっかりしてよ。もうシングルパパなんだから」
「じゃぁさぁ……。麗子さんもずっと一緒に……。居たらいいじゃない……」
「なに寝ぼけた事言ってるのよ。って、本当に眠そうなんだけど」
「べぇつにぃ……。寝ぼけてなんてぇ、いません……ょ」
「ハイハイ。そうですか。あなた。わかってる? 私がココに残っててもね何も出来ないのよ。家事もできないし、巧やあなたに触《ふれ》る事も出来ないのよ。わかってる? しっかりしてよ」
「わかってるよ。でもね、麗子さんが居ないと、ちょっとね……」
「『ちょっと』何よ。ねぇ、あなた」
「ちょ……と……ね……ぇ……」

「あぁ、寝ちゃった。布団で寝ればいいのに」
 伸一の夢の中で、麗子がそう言った。

      ※

「おとうさん起きてよ。おとうさん」伸一は、巧の声で目が覚めた。
 掛けてある毛布を手で押し下げて、ゆっくりと体を起した。寝ぼけた頭を働かせはじめた伸一が一番最初に『麗子はどこに居る?』と思いながらアタリを見回すと、巧が返事をするように「おかあさん居ないね」と言った。
 やっぱり、夢だった。麗子は死んでしまった。もう居ない。麗子の幽霊が居たと思ったのも、ショックで幻を見てただけだったに違いない。
 伸一がそう考え始めて、連れ添ってきた麗子が居なくなった寂しさをようやく実感し、30%程度しか稼働していない脳で、巧を1人で育てていく現実を考えはじめていた時、ふと違和感を感じた。
 夕べは巧を寝かしつけてから、リビングのソファーに座って、麗子の幻と話しをしながら眠ってしまった。そのまま寝込んでしまった。なのに毛布が掛けてある。巧か? いや、3歳の男の子が、そんな気の利いた事をする訳がない。第一押し入れに手が届かないだろう。じゃ、無意識にやったのか? それもあるかも知れない。だけど、なんでリビングまで戻って来たんだろう?
 じゃあ、やっぱり、麗子が……。いや、待て。麗子が居たとしても所詮幽霊だ。何かを持って動かすなんて出来る訳ないじゃないか。もしかしたら、麗子が亡くなったのは夢だったとか……。
 伸一がそんな都合のいい“夢オチ”を想像したとき、リビングの隣にあるキッチンから声が聞こえた。
「起きられましたか?」
 やっぱり麗子か? コレは夢オチだった。悪夢だったと伸一が現実逃避をしようとした時、キッチンからリビングに女性が入って来た。
「麗子……」伸一がそう呼びかけそうになった時、やっと気がついた。
「義兄《おにい》さん、おはようございます」義妹《いもうと》の結子《ゆいこ》だった。
「おはよう。結子ちゃん。こんな朝早くからどうしたの?」状況を呑み込めない伸一の口からは、コレくらいの言葉しか出て来なかった。
「なに言ってるんです? 義兄さん。もう昼前ですよ」
 そう言われて伸一は、顔を上げて壁に掛けてある時計を見た。すでに11時40分。忌引きで会社を休んでいる事を思い出した。
 サイドボードの上にある骨壺が目に入ると、麗子が亡くなった事を改めて思い知らされた。
「ご飯食べるでしょ。準備しますね」結子はそういいながら、伸一に笑いかけた。
「あっ、ありがとう。えっと、巧はもう食べたの?」伸一がそう言うと、待ち構えていた巧が、伸一に抱きついて、何の躊躇《ちゅうちょ》もせず大きな声で訴えた。
「ゆい姉ちゃんのタマゴ、カチカチでクロいよ」伸一が巧に聞き返していると「目玉焼き、ちょっと焼きすぎちゃって、巧くんが残しちゃったの……」結子が遮るように口を出した。せっかくの好意なのに申し訳ないと伸一が詫びると、気にしないでくださいと結子は伸一に告げながら、リビングの少し低いテーブルの上に、食器を並べはじめた。
 焦げた目玉焼きを気にしてか、今度は白身が生のママの目玉焼きに、インスタントのみそ汁、冷蔵庫に残っていたキュウリの漬け物が少し、茶碗によそわれたご飯は水の量を間違えたのか艶が無い。口にするまでもなく強飯《こわい》のがわかってしまう。
 皿を並べ終わった結子は、お茶を入れる為に一度キッチンへ戻って行った。
 伸一は、目の前の朝食を一瞥し、覚悟を決めて一気に食べはじめた。
 ほとんど生タマゴ状態の目玉焼きを、そのままご飯に乗せて、醤油をかけた。最近の炊飯器では味わえない、米に歯ごたえのあるタマゴご飯。
 インスタントのみそ汁なんて、何年ぶりだろう? 少ししょっぱく感じる。麗子のみそ汁は、出汁を利かせた薄味だった事に今さら気がついた。
 箸休めに漬け物に手を伸ばしたが、コレは既に1週間程度経ってないか? 麗子が亡くなった日の夕飯に『これはもうダメね』と言っていた様な気がする。一度出した箸を引き戻した。
 こうして朝食ひとつとっても、伸一は麗子の事を思い出す。彼女がどれだけ頑張って来たのか、彼女がどれだけ大切だったか、彼女にどれだけ愛されていたのか、伸一は今までの自分を顧みて、少し切ない気持ちになって来た。

「麗子……」伸一は思わず呟いた。
「呼んだ?」麗子が応えた。気がつくと伸一の隣に座っている。
「うっ。居たの?」
「いやね。ずっと居るじゃない」
「いや、夢とか、幻とか、そんなんだと思ってたからさ……。ちゃんと居るんだよね」
「ちゃんとかなぁ? 幽霊だから、夢とか幻と大差ないんじゃないの?」
「いいよそんなの。麗子さんと話しが出来るなら、問題じゃない」
「そんな事言っていいの? 取り憑かれちゃうかもよ」
「なにか不都合でも?」
「取り憑いた事なんてないから、そんなの知らない」
「じゃ、俺は構わない。まだコッチに居てもいいんだろう」
「えらく気軽に言ってくれるわね。私が知りたいくらいよ」
「じゃあキマリだ。当分コッチにいろよ」
「まぁいいわ。行く宛もないし。ところでぇ、結子の料理ひどいわね」
「それもそうだね。でも今朝だけ我慢すればいいから、何も言わないよ」
「そうかしら? 本人は居座るつもりみたいよ」
「えっ? どういう事なの?」
「丁度、結子が来たから、本人に聞いてみたら?」
「お義兄さん。お待たせしました。お茶をどうぞ」

 伸一の食後のお茶を持って、結子がキッチンからリビングへ戻って来た。
 多くの日本人の感覚では食後のお茶は、急須に入った暖かい緑茶かほうじ茶になるのだろうが、彼女の持つお盆の上には、ミルクティーのペットボトルが乗っていた。
 伸一が尋ねると「わたしミルクティー好きなんです」と返事になってない答が返ってきた。
「結子ちゃん、今朝はどうしたの? 義父《おとう》さんか義母《おかあ》さんに言われて来たの?」
「違いますよ。誰にも言わずに来ました。だって2人とも暗い顔してて、話しなんてできませんから」
「そ、そうなんだ。まだまだ辛いよね。だけどぉ、結子ちゃんは元気ぃ、だよね」
「そうですね。姉さんが死んじゃったのは悲しいけど、いつまでも、そんな事ばかり言ってられないし、わたしがしっかりしないと、いけませんからね」
「ま、前向きだね。ところでどうやって入って来たのかな? 俺も巧も寝てたでしょ」
「母さんが鍵を預かってたんで、勝手に持って来ちゃいました」
「え、えぇっ。積極的だねぇ。でもどうしてソコまでしてくれるのかなぁ?」
「だって、お義兄さん、お葬式の時、変だったでしょ。まるで、姉さんと話してるみたいでしたよ」
 伸一は、息が止まりかけた。
「えっと、そんな風に見えた?」
「うん。見えました」
「そんな風に見えたんだ……」
「そう。見えたんです。だからね、お義兄さん」
「だ、だから、な、なにかなぁ」
「お義兄さんのショックが癒えるまで、ここに住んであげようと思って来ました」
「えっ? そ、それはダメだよ」
「なんで? わたし、巧の叔母だし、血縁者だから問題ないでしょ」
「問題ありすぎるよ。嫁入り前の女性が、男と一緒に住むなんてダメだよ」
「問題ないわよ。まぁね、別にね、何かあってもさぁ、構わないんだけどね」
「構うよ。麗子の妹に手を出したりしちゃ、まずいだろ」
「じゃ、手を出さなくてもいいから、ココに置いてください。お義兄さんの助けになりたいの。お願いします」
「えっ? な、なに言ってるの?」
「お願いします」
 結局、伸一は押し切られてしまい、結子は居座る事になった。

「やれやれ」伸一の耳に、麗子の声が届いた。

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pixiv』、『クランチマガジン』、『小説家になろう』でも公開しております。
ただ、書きながらのアップロードなので、次回以降の予定はわかりません。

 よたか拝