夜明け前のよたか 掌編・書出し

よたかが書いた作品を掲載中です。

初恋よたか

 彼の初めての買物は『小学1年生』という月刊誌だった。
 卒園式が終わったあと、祖母から貰った小銭を握りしめて、商店街の端っこにある本屋へ駆け込んだ。
 これからは〝小学生らしい本〟を読もうと思って、彼が選んだ本が『小学1年生』だった。
「これください」そう言って、本とお金を自分の視線と同じくらいの高さのカウンターの上に載せた。
「あっ、10円足らんね。買うとやったら、さっさと持ってきて」
 女主人の声が6歳の男の子の胸に突き刺さる。
 生まれ育った商店街。何度か母親と来た本屋。初めての買物。足りないお金。少年は戸惑い、固まった。
「邪魔やけん、帰ってお金貰ってこんね」
 少年は〝おちんちん〟のあたりが痺れた。そして体中に広がっていくのを感じた。
 ちょっと頭がぼぅっとして、1歩だけ後ずさりすると、後ろの人にぶつかった。少年が振り向くと、大人のお姉さんが少年の肩をささえながら、軽く笑っていた。
 少年はぶつかったので『ごめんなさい』と謝りたかったけど、口から出なかった。
 お姉さんは、財布から10円を出してカウンターの上に置いた。
「ウチが出しちゃぁけん、そげんいじめんどき」
「お姉さんが出しちゃると? あぁ、ありがと」
 女主人は本を袋に入れながらそう言って、お姉さんに本を渡した。
「ぼく。ほら、持って帰り」
「う、うん」
 少年はそれだけ言うと、本屋から飛び出した。
 とにかくその本屋から離れたかった。
 走って家に帰ると、初めての買物を心配した母親が玄関で待っていた。母親は本の価格を見て10円足りなかった事に気がつき、少年に尋ねた。
「まけてくれたとよ」
 少年は母親に嘘をついた。

 数日後、母親が一部始終を本屋で聞いて来て、その日の夕方少年を問いつめた。
「どうして嘘ついたと?」
「……」
「なして答えんと?」
「……」
「だまっとったらわからんめぇもん」
 ヒステリックな母親の声に、少年は背を向けて家を飛び出した。そのまま商店街の端っこまで来て立っていた。
 少年は『商店街から出ちゃダメ』だとずっと言われてきた。
 商店街の端っこの向こうには踏切があって駅がある。事故や事件に巻き込まれる事だってあるかもしれない。
 だから少年は商店街の端っこでずっと立っていた。
 駅から商店街にたくさんの人が流れ込む。自分の家に帰るためにたくさんの人が通り抜けていく。途中で、総菜やお菓子を買う人や、喫茶店で本を広げる人、裏道に入ってお酒を飲む人、そして本屋に寄る人。
 少年は商店街の端っこで、お姉さんを待った。だけどその日は、お姉さんとは会えなかった。帰ってから母親とは大した会話もなかった。
 次の日は、貯金箱から取り出した10円玉を握りしめてお姉さんを待った。
 7時近くなり、少年が帰ろうとした時に少年は声を掛けられた。
「あれ? この前のぼくね? お姉さんの事おぼえとぅ?」
「うん」少年が忘れる訳がない。少年はお姉さんに会う為にココで待ってた。
「あっ、あの、これ……」そう言って、少年は10円玉をお姉さんに差出した。
「よかよ。そげん」そう言って断ったものの、それ以上何も言わない少年を見てお姉さんは「うん」と言って受け取った。
 少年は、やっと緊張をといてお姉さんに言った。
「ありがとうございました」
「どうしたと? そげん言わんでもよかとに」
「でっでも。ぼく、なんも言わんかったけん。こわかったとよ」
 少年はそう言って、少し目を潤ませた。
「ずっと気にしとったと?」
「……」言葉にできずに少年はうなずいた。
「じゃ、コレからはちゃんと〝ありがとう〟言わんといかんね」
「うん」
「可愛かね〜。じゃ、またね」
 そう言ってお姉さんは、商店街を通り抜ける人の波に消えて行った。

 30年経って彼が商店街に戻ると、駅が100メートル北へ移動していて、店の半分はシャッターが降りていた。
 あの本屋があった場所は更地になっていた。